2012年9月30日

それって戦略?

「ねえねえ ちょっとこれ どう思う?」

カミさんが四分の一に折った朝刊を私の目前に差し出した

「『かけっこの1位 そこまでして』…これ読者投稿だね」

暫し記事に目を通していると…

「そのお父さんが褒めるってどうなの? 有りえなくない?」

カミさんが厳しめの口調で畳みかける

「ああ 褒めるのはいかがなもんかと思うが
高校や大学選ぶ状況って実際似たようなもんだからな」

「じゃぁ その子のやったことは正しいってこと?」

「いや正しい正しくないじゃなくて そういう考え方もあるってことだ」

「納得できないなぁ…」

「納得する必要はない…親子関係としてはまったくおかしいからな」



先日カミさんが持ってきたある新聞記事に目が留まりました。
記事というかよくある一般の方の投稿なんですが、ちょっと抜粋させていただきます。


孫の運動会に行った。連休で横浜から来ていた親戚の親子と一緒に観戦した。
一年生の孫のかけっこの番になった。孫は精いっぱい頑張り見事一着になった。
見ていた横浜の小学三年生の子が「あんなにむきになって走らなくても…」
と小声で漏らした。家に戻ってそれとなく親戚の親子に聞いてみた。

横浜の子の学校では、足の遅い子が極端な劣等意識を持たないようにと本番
前に全員のタイムを計り、同じ位のスピードの子ども同士で走らせるという。
そこでその子は考えた。『計測の時にわざと遅く走れば本番で遅い子と走れ 
るから楽に勝てる』と… 結果はぶっちぎりの一位だったそうである。

事情を知った父親は「それも戦略の一つ よくやった!」と褒めたという。

普通なら「ズルをしてはだめ 正々堂々と勝負しなさい」となりそうだが、
「今は競争社会 戦略なくしては生き残れない」というのだ。
しかし、いくらなんでも『正直者がバカをみる』を当然視する社会の中で育つ
子どもたちが、果たして幸せといえるだろうか…


さて、この記事を読んで皆さんはどう思われるでしょうか。
というよりどこに問題点を感じるでしょう。


極端な劣等感を持たせないためにと、初めから足が速い遅いで格差をつける学校?

自分にとって楽なレベルに身を置き、その中でトップになって満足している子ども?

周囲を欺く嘘や八百長さえも戦略と嘯き、それで本当に勝ったと思っている父親?


それぞれ本当にそれでいいんかいと言いたくなりますが、実は根っこの部分の大問題はすべてに共通しているような気がします。

それは自分さえ良ければいいという考えと、自分を守るためには何でもアリという行動をとってしまうということです。平たく言うと我儘とかエゴと言われるものですが、自分のエゴを基準にすべてのことを処理しようとするから信じられないことが平気で起こるのだと思います。


学校は、表向き生徒が劣等感を持たないようになんて言ってますが、実際のところ足が遅いことで落ち込む子どもが出ようものなら俗にいうモンスターペアレントとやらに苦言を呈され、面倒なトラブルになることを畏れているだけのように受け取れます。

そもそも人と競い合って負けることも、自分の思うようにいかない辛さを知ることも、ある意味それを訓練のように経験できるのが学校であり、そこからどうやって立ち直るかを指導、教育するのが先生と言われる人達の本来の存在価値なのだと思います。しかし、今の教育現場は子どもたちにその経験すらさせないというカリキュラムで成り立っています。そのあからさまな事なかれ主義は、教育現場の保身としか言いようがありません。


自分が楽な方へ楽な方へ行こうとする人は、そうしていることを自分自身が一番よく分かっていると思います。それなりに年齢を重ねた良識ある大人であれば、仮に暫くはその状況に甘えていたとしても、どこかでこのままではいかんと気が付くはずですが、小学生の子どもにそれを求めるのは当然無理があります。しかし、楽な世界に身を置いて、そこで楽に生きることを親が良しとするならば、子ども自身になんらの成長も進歩もないのは明らかで、ただただ親子そろって低次元な自己満足の世界に留まってしまうだけなのではないでしょうか。


そして大問題の元凶である「親」

親は自分の子どもに世の中の常識やマナー、そして人としていかに生きるべきかを身をもって示すことが重大な責務でありますが、その親が明らかな嘘を戦略と言ってしまってはアウトです。嘘はどこまで行っても嘘だからです。

しかし、子どものためだったらルールも常識もおかまいなしといった親が多いのも悲しいかな事実です。世のお父さんたちが運動会で自分の子どもだけを一生懸命ビデオに収めようとするルール無用の姿に象徴されますが、そんなの当り前でしょと公言する親さえいて…まさしくエゴの塊だなと恐くなります。

今さら言うまでもなく、いじめやニートや引きこもりといった問題の原因は、学校でも教育委員会でもなく、すべては家庭の親子関係にあると私は思ってます。

たとえばこの投稿の父親のように、わざと遅く走って一等賞になった我が子をよくやったなんて評価していると、この子には我慢とか辛抱という気持ちが育まれることはなく、今後ちょっとしたことですぐに挫折したり諦めたりして、社会に順応できなくなってしまう可能性が大いにあります。

さらにこんな年頃で一等賞になるために人をバカにしたようなことをすることで、皆に無視されたりいじめに遭うことだって十分考えられます。それもこれも実は大事なときの父親の対応一つです。


基本子どもには何の罪もありません。子どもは親を見て成長しているからです。すべては親のひとりよがりの意識がどのくらい強いかが、自分の子どもに表れると見るべきです。それだけ親の生き方や言動に責任があることを私たちは親として識るべきではないでしょうか。

一稿の記事で、親としてのスタンスを改めて考えさせていただきました。



「ウチの子たちはこんなことなかったよねェ?」

「(笑)そこまで頭が回るやついないでしょ…」

「そうだよね 三人ともいつも一生懸命だったよね」

「俺達がそういう生き方しかできなかったでしょ?」