2012年10月31日

師と仰ぐ人

「こないだはどうも~」

突然裏の勝手口からお義父さんの声がした

「あ~~ こんちは~ どうしたんですか?」

小走りで勝手口に向かうとお義父さんがドアから顔だけ覗かせながら

「こないだは夜中に悪かったね おかげで助かりました」

私はわざと少しだけ眉間にしわを寄せながら

「おじいちゃん もう何言ってるんすか~ 水くさい」

「いやいや ホント おかげ様でたいしたことなくて・・・ね」

「うんうん 女房から聞きました  
でも暫く入院みたいだから・・・また何でも言って下さいね」

「ありがと ありがと こっちは大丈夫だから じゃあね」



家内の両親の実家はウチのまん前に建っている。というより、私らが自宅を実家の敷地の一部に離れのように建てさせてもらっている。そして日中は家内が実家のおさんどんはもちろん、両親の身の回りの世話、要するに介護をかいがいしくしているという状況である。


先日夜更けに寝ていた家内が起き出してきて、「おばあちゃんが具合悪いみたい・・・今おじいちゃんから携帯に電話あった・・・」と言って眠い目をこすりながら実家に行こうとしたので、スポーツニュースを見ていた私も当然家内の後に続いて隣の実家に入って行った。

何しろ二人とももう八十を過ぎて要介護認定を受けるような老人なので、正直何時何が起こっても不思議ではない。

幸いその日はちょうど東京に住むカミさんの姉が里帰りして両親の世話をしてくれていたので、義父も取り乱すこともなく落ち着いていられたようだった。

家内の二歳上の義姉は東京で今も保育士をしているが、一月か二月に一度両親の介護のために数日間休みをとって里帰りしている。同居している私の母親を含め、毎日三人の年寄の面倒を見ているカミさん、即ち彼女にとっては妹の負担を少しでも軽くしてあげようと協力してくれているわけだ。

彼女たちは二人姉妹で実家には後継ぎがいないため、たまたま一家離散状態で根なし草だった私が、結婚後暫くしてカミさんの両親の面倒を見る覚悟を決めて20年ほど前から隣に住むようになったのである。


その日義母は熱を出し多少震えも来ていたので、近くにあるかかりつけの大学病院に私らが連れて行くことも考えたが、夜中でもあり、一般人が急に行っても病院の受入れ体制も十分ではないだろうということで大事をとって救急車を呼ぶことにした。

娘二人が母親の衣服を直したり、病院に行く支度やらしている間、男手の私は何をすればいいだろうと考え、とりあえず駐車場から玄関までのストレッチャーの通路を確保し、救急車を誘導するために表の道路に出て待つことにした。

ほどなくしてサイレンを鳴らしながら到着した救急車を駐車場まで導き、ストレッチャーを運ぶ隊員さんの前方に立って玄関まで誘導した。

3名の救急隊員が手際よく義母を救急車に運び入れ、かかりつけの大学病院に連絡をとってくれていた。義母はその段階でも目を開け意識もちゃんとしていたので、命に別状はないだろうと思ってはいたが、そこは何が起こるか分からない。

救急車には義姉が同乗し、カミさんが自分の車に荷物を積み込み後を追った。私は義父を休むように促してから自宅に戻り、カミさん達の帰りを待つことにした。


「暫く入院しなきゃいけないって…」

「そうか…」

夜中の1時半を回った頃、病院から戻ってきたカミさんがつぶやいた。
何かのウィルスが義母の内臓にいたずらして熱が収まらなくなっているらしく、1~2週間の入院が必要とのことだった。

ただ症状自体は重いものではなかったので、とりあえず一安心ということで遅い寝床に着いたのである。

(写真は入院病棟から見た景色)


義父はこのときのことを、休日で日中私が自宅にいる時を見計らって礼を言いに来たのだ。

私は日頃からこういう義父の思いやりや行動を本当に尊敬している。

今でこそ腰の曲がった優しいおじいちゃんになった義父であるが、私が家内と付き合い始めた30年以上前、ちょうど今の私と同じ五十代の頃は、それはそれは恐い昭和の頑固オヤジ…と、私の目には映っていた。

義父は社会に出て一人で魚の行商をやり始め、その後惣菜を作って売る商売を親友と二人で起こし、その店を一代でこの地域では知らない人がいない位の大きな食品製造会社にした豪傑である。

昔から自分がこうと思ったことはかなり強引にことを進めるワンマンな性格だが、義父が商売を立ち上げた戦後の高度成長期に向かう日本は、そんな周囲から揶揄されるくらいの「我」を備えていなければ、きっと成功できなかった時代だったのだと思う。


私が義父の足元にも及ばないと思うのがその勉強熱心なところである。

勉強という言葉が適当かどうかわからないが、とにかく知識や情報を得ることが大好きな人と表現した方がいいかもしれない。

何しろ八十半ばになった今でも、新聞は日経、読売、地元ローカル紙の3紙、週刊誌は新潮、文春、現代、ポスト、朝日の5誌、さらには中央公論まで読んでいる。

数年前までは株取引も頻繁に行っていたため会社四季報と、あちこちに始終出かけていたせいかJRの時刻表が必ずリビングのテーブルに置かれていた。

そして自分が大きくした会社は55歳であっさり勇退し、その後の10年間は細君や友達と旅行やゴルフを楽しんで悠悠自適に暮らしていた。

私がびっくりしたのは、ラスベガスや韓国の有名なホテルからカジノの世界大会などの招待状や案内状が自宅に送られていたことだった。


そんな豪傑で一見金持ちのセレブに思われる義父だが、私らが結婚するときは、私の家庭が父親の仕事の失敗がもとで、親戚や知り合いに顔を合せられないほど壊れていたことを察して、カミさんと二人だけでハワイに行って結婚式を挙げて来なさいと促してくれた。

名の知れた会社の社長だった人物の娘の結婚式なのに、そんな見栄や立場なんかをまったく気にしない人なのである。

そして、私が最も尊敬してやまないところが義父の細やかな気遣いだ。

これだけの人物が、私のようなどこの馬の骨かもわからないような男を受け入れてくれたことだけでも感謝以外の何ものでもないのだが、何でもないようなことでも決して偉ぶることもなく、私ら家族に対しても親しき仲にも礼儀ありを絶対に省略しない。
そこが本当に凄いところなのだ。

私は25年間親子をやらせて頂いているそんな義父を勝手に師と仰いでいる。



「久しぶりに子どもたち誘って廻る寿司でも食べに行くかね…」

「いいですね~  今日はウチが持ちますよ!」

「おお~それはそれは タダの寿司は二倍美味しいからね~(笑)」

「おっしゃる通り!(笑)」

こんな生活を少しでも長く楽しみたいものである